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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。
200 件の情報が見つかりました。
氏名 | 地区 | 業績 |
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平沢昌達ひらさわ しょうたつ | 石鳥谷 | ”江戸時代に医師として活躍した” 江戸時代に盛岡藩の藩医として活躍した。 八幡村白幡で富豪として知られた家の長男として生まれた。15歳の時に盛岡藩医上野友達の門人となり医学の勉強に励み、その後上京し名医に学んだ。再び恩師、友達の下で修行を積んだが、更なる知識習得のため、長崎に出て再び学び帰郷した。享保6年(1721年)に、盛岡藩の藩医となり、のちには百五十石の医師となった。延享2年(1745年)2月14日に70歳で亡くなり、盛岡市の報恩寺に葬られている。 |
平沢親常ひらさわ ちかつね | 石鳥谷 | ”盛岡藩の史学者として活躍” 享保9年(1724年)に八幡村白幡で農業や質屋、酒造業を営む家の二男として生まれた。幼少の頃から、盛岡藩医である伯父の昌達(親善)のもとで暮らした。寛政9年(1797年)、親常が74歳の時に南部氏に関係する古文書を写した『御当家御記録』を完成させた。寛政元年(1789年)南部氏家臣の諸家にある将軍家より拝領の品や古文書・古記録などの写本を提出した。翌2年には、盛岡江戸間を往来し、「南部家々譜」を提出した。親常は盛岡藩の先人史学者、伊藤嘉兵衛祐清に次ぐ古文書学者といわれている。寛政10年(1798年)7月2日に75歳で亡くなった。 |
平沢寛長ひらさわ ひろなが | 石鳥谷 | ”江戸時代に藩財政に貢献した” 慶安元年(1648年)に好地で生まれた。寛文年間(1661~1673年)頃、寛長は八幡の白幡に転居し農業をしながら新田の開発を進めた。のちに大農作を営み、近郷から富豪と知られるようになる。冷害や凶作で財政が困難していた際には、南部藩の借り上げ金にも数度にわたって応じ、藩財政に貢献した。享保20年(1735年)10月18日に88歳で亡くなり、菩提所の大興寺に葬られた。 |
藤岡澄見ふじおか きよみ | 石鳥谷 | ”平和な村の造成に努めた数学の大家” 文政3年(1820年)8月12日に関口村十日市に生まれる。家は代々北家の家臣となっていた。12歳まで北家家臣の小早口小三治に漢学や算術を学び、13歳の時には独学で数学の研究をした。15歳の時に北家に出仕し、御勘定掛り及び御賄掛けとしておよそ20年間仕えた。職を辞したのち、地方の若者たちを集めて私塾(寺子屋)を開き、学業の他にも野遊びや相撲を教えた。他にも平和な村の造成にも尽力した。明治14年(1881年)9月14日に61歳で亡くなった。明治28年(1895年)12月に、門人や関係者によって生家に近い宇賀神社境内に「数学先生、藤岡澄見碑」を刻まれた石碑が建てられている。 |
藤沼市五郎ふじぬま いちごろう | 石鳥谷 | ”多くの門弟を育てた杜氏の先駆者” 天保12年(1841年)5月5日に紫波町北日詰で生まれる。18歳の時に味噌・醤油の製造販売、呉服・雑貨販売、酒造業等を手広く営む井筒屋に勤める。明治8年に井筒屋(郡印・小野権右衛門家)の酒造業の廃業に伴い石鳥谷に渡り、酒造りにあたった。のちに杜氏として、石鳥谷の酒造りにあたる。名杜氏として酒造りにあたるほか、弟子の養成にも力を注ぎ、石鳥谷町や紫波町杜氏の輩出に貢献した。晩年、銘柄「七福神」の醸造に力を注いだ。大正3年(1914年)9月26日に74歳で亡くなった。 |
藤原広寿郎ふじわら こじゅうろう | 石鳥谷 | ”八重畑の三筆” 八重畑山屋の出身。大迫町の煙草専売局に勤務していた頃から、天才的な書道の技量を持っていたと言われている。戦前まで各地で漢学塾を開設し、指導にあたっていた。帰郷後、実弟とともに農業にあたった。昭和42年(1967年)5月に89歳で亡くなった。安斉武彦・大竹三郎とともに「郷土の三筆」と称された。 |
藤原脩二ふじわら しゅうじ | 石鳥谷 | ”大戦前後の町政を指揮した” 明治22年(1889年)4月7日、大興寺に生まれる。花巻の小学校から県立盛岡中学校(現盛岡一高)を卒業後、教職に就いた。昭和4年(1929年)7月に旧石鳥谷町長に就任し、世界恐慌や満州事変や太平洋戦争の中、町政の立て直し、産業と教育の進展に尽力した。町長退任後、盛岡地方裁判所管内の調査委員や青年学校学務委員、町教育委員を務めた。昭和30年4月、町会議員選挙に当選した。町会議員在任中、昭和32年(1957年)9月10日、69歳で亡くなった。 |
藤原留吉ふじわら とめきち | 石鳥谷 | ”独学の名工” 明治16年(1883年)2月2日、八幡の明戸で生まれる。日露戦争に出征し、目の前で多くの戦友が亡くなったことや仏教の信仰心が彫刻の道に進むきっかけになったとも言われている。職人の秘伝書で研究を続け、彫刻の技術の向上に努めた。留吉の作品として、広済寺の仁王尊や同寺本堂向拝の唐獅子、龍、鳳凰の彫刻、新堀金剛寺の鬢頭廬、八幡の八幡宮の十二支などがある。父母の供養のために制作した鬢頭廬は、撫でると除病の功徳があると言われ、「なでぼとけ」とも言われている。神仏の彫刻以外にも個人印や団体印などの彫刻も行った。昭和15年(1940年)3月5日に58歳で亡くなった。 |
藤原文三ふじわら ぶんぞう | 石鳥谷 | ”戦後の多難な町政に手腕を発揮した” 明治29年(1896年)3月26日に大興寺に生まれる。県立盛岡中学校から早稲田大学政治経済学部に進み、卒業後は大阪市役所に勤務した。その後、神戸市役所に移り20年間勤務した。昭和20年(1945年)に帰郷し、石鳥谷町の助役を務めた。のちに、石鳥谷町長となり、戦後の困難な中、町政の立て直しに努めた。昭和30年、旧石鳥谷町、八幡村、新堀村、八重畑村が合併した際には、新町長誕生まで町長代理を務めた。町長退任後も、石鳥谷町農業協同組合理事、山王海土地改良区理事など数々の要職を務めた。昭和38年、自治功労者として町から表彰を受けている。昭和61年(1986年)6月12日に91歳で亡くなった。 |
淵澤定行ふちざわ ていこう | 石鳥谷 | ”町史史料の編纂に尽力した郷土史家” 明治29年(1896年)9月29日、関口に生まれる。盛岡市の岩手農工銀行に入社し、銀行員として務める傍ら、郷土史に興味を持ち調査・研究に励んだ。退職後は、県の非常勤嘱託として産業・文化の調査にあたり、石鳥谷町が町史資料として発刊した「光林寺文書」」「岩手県管轄地誌(石鳥谷町分)」「百姓一揆」「北家文書」「平沢家事跡」「草刈争議」「石鳥谷町の沿革」「飢饉」などの必要史料を収集し、編纂の労をとった。晩年は横川良助編「内史略」の読解と解説にあたり、これはのちに「岩手史叢」として出版されている。昭和48年(1973年)11月30日に77歳で亡くなった。三十数点の古文書が石鳥谷町教育委員会に寄贈されている。 |
淵澤能恵ふちざわ のえ | 石鳥谷 | ”韓国子女の教育に尽力” 嘉永3年(1850)5月8日、関口村(現石鳥谷町関口)で生まれる。釜石で鉄道技師として来日していたバーゼル家に家政婦として働きながら英語を学んだ。西洋文明に憧れを持っていた能恵は29歳の時に一家とともに渡米した。英語と家政学を学び、クリスチャンとなって帰国した能恵は、東洋英和女学校、一橋高等女学校等の教師として教育にあたった。明治38年、女子教育の場が少なかった韓国に渡り、翌年ソウルに明新女学校を開校した。この学校は今でも名門校とされている。昭和11年(1936年)2月8日に86歳で亡くなった。墓はソウル、菩提寺、石鳥谷広済寺、紫波町の本誓寺、東京の多摩墓地にある。 |
松川恒徳まつかわ つねのり | 石鳥谷 | ”盛岡藩の著名な儒学者” 松川恒徳は、盛岡南部藩政に活躍し、著名な儒学者でもあった。 南部氏に仕えていた松川正道の三男として生まれる。若い時から学問に励んでいた恒徳は、京都に遊学したのち、花巻御給人となり、その後盛岡で勤務をし、優れた儒学者として名声を得た。学問の最盛期を迎えていたが、そうした動きに反対する人々との間に政争が起き、元禄16年(1703年)に罰せられた。享保4年(1715年)再罪により閉伊郡に配流された。享保11年(1726年)4月5日、62歳で亡くなり、八重畑の南滝田に葬られている。 |
松本たかしまつもと たかし | 石鳥谷 | ”俳人高浜虚子の門弟” 明治39年(1906年)1月5日、東京神田猿楽町で代々江戸幕府所属の宝生流座付の能役者の家に生まれる。幼少から能の稽古に励んだが肺炎を患ったため、のちに優秀な作家として知られる高浜虚子のもとで俳句に打ち込むようになる。著作に「松本たかし句集」「鷹」「野守」「石碑」「火明」などがある。昭和31年(1956年)5月11日に50歳で亡くなった。猪鼻の広済寺境内に松本たかし・つや夫妻の句碑が建てられている。 |
松本つやまつもと つや | 石鳥谷 | ”俳人高浜虚子の門弟” 明治31年(1898年)6月20日、矢巾町の曹洞宗高伝寺の次女として生まれる。身体が丈夫でなかったが、岩手病院(岩手医大付属病院の前身)看護婦養成所を卒業後、同所で看護婦として勤務。その後、健康上の理由から鎌倉に移住し看護婦として働く中で、病床のたかしと出会い結婚した。同時に高浜虚子のもとで俳句に打ち込むようになる。たかし亡き後、たかしが主宰した「笛」を引き継ぎ指導にあたった。昭和58年(1983年)7月4日に亡くなった。句集「春蘭」、没後遺族により「野次」が刊行された。猪鼻の広済寺境内に松本たかし・つや夫妻の句碑が建てられている。 |
三沢秀寿みさわ ひでひさ | 石鳥谷 | ”柔術の指導にあたった元会津藩士” 三沢秀寿は、元会津藩士で戊辰戦争により会津藩が敗れた後、各地を放浪し石鳥谷に移住してきたと伝えられている。秀寿は、石鳥谷町上好地地区に家を建て、同地区や好地、犬渕地区(現紫波町)などの若者を集め柔術を教えた。明治30年(1897年)旧3月27日に46歳で亡くなり、上好地の共同墓地に葬られている。墓碑には、「元会津若松藩柔術の達人、秀学寿道居士」と刻まれている。 |
三田キヨみた きよ | 石鳥谷 | ”育英会を独力で発足させ「賢婦人」と賞賛された” 弘化元年(1844年)5月13日に八重畑で生まれる。17歳の時に盛岡藩士三田義魏に嫁ぎ9人の子どもをもうける。熱意を持って子どもたちの教育にあたり、長男 義正は盛岡市の三田商店を設立、のちに県会議員や貴族院議員等を歴任した。二男俊二郎は岩手医科大学の前身である岩手医学専門学校を創設、同付属病院の経営にあたったほか、岩手中学校(現岩手高校)や岩手実科高等女学校(現岩手女子高校)を創設した。キヨは質素倹約を行い、貯金したお金を基金とし、経済的に恵まれない子どもの補助を目的とした積錙育英会を発足させた。三田家や関係会社、市民から師表として敬愛されたキヨは、昭和5年(1930年)7月18日に87歳で亡くなった。 |
三又宮次郎みまた みやじろう | 石鳥谷 | ”地域医療に尽くした” 明治35年(1902年)3月31日、大瀬川で與次郎の三男として生まれた。兄二人が若くして亡くなったため、医師を目指し東京医専(現東京医科大学)に入学し、卒業後は父 三又與次郎の跡を継いで医師になった。往診に白い馬を愛用し、医療費は患家の経済力に応じて受け取っていた。昭和22年(1947年)8月26日、46歳の若さで亡くなった。 宮次郎亡き後も、長女の夫が大瀬川で開業したのち、八幡に移住して開業した。弟の三又五郎も花巻市四日町で三又医院を開業した。 |
三又與次郎みまた よじろう | 石鳥谷 | ”地域医療に尽くした” 明治2年(1869年)9月22日、八幡村で生まれる。黒沢尻の斉藤医院に住み込みで勉学に励み、明治27年に医師試験に合格をした。八幡で医療に携わったのちに大瀬川で内科・産婦人科医院を開業した。大瀬川だけではなく、八幡や好地、八日市、紫波町方寄方面などにも往診に駆けつけ多忙を極めた。 生活の苦しい家からは、経済力に応じ薬代を受け取っていた。稗貫郡医師会副会長や同評議員、県医師会評議員、村医、校医、学務委員等を歴任したほか、八幡宮(八幡)、山祇神社(大瀬川)など七社の神主を務めた。昭和7年(1932年)4月9日に64歳で亡くなった。 |
柳原一郎やなぎわら いちろう | 石鳥谷 | ”好地地区の人材育成に尽力” 元治元年(1864年)7月5日に好地村(石鳥谷町好地)で生まれる。岩手師範学校卒業後、好地小学校で教師となる。約40年に及ぶ教員生活で、岩手日報の礎を築き社長を務めた後藤清郎、川村酒造店を創業した川村○右衛門など全県・全国で活躍する人材を育てた。退職後は、教え子である熊谷芳太郎、川村○右衛門が設立した石鳥谷杜氏酒造会社の事務長となった。大正14年~昭和4年まで好地村長(昭和3年からは旧石鳥谷町長)を務めた。昭和6年に後藤清郎の発案で教え子達により、石鳥谷小学校(現石鳥谷運動公園)の門前に胸像が建立された。昭和11年(1936年)8月28日に73歳で亡くなった。 |
柳原義一やなぎわら ぎいち | 石鳥谷 | ”地方自治の振興に尽くした” 元治元年(1864年)4月5日、江曽で生まれる。黒沼小学校(八幡小学校の前身)で教育にあたり、その後収税史を勤め、のちに退職し、明治22年(1889年)26歳で村会議員選挙に当選した。その後は八幡村収入役、同助役を務めたのち明治31年に八幡村長に就任し、学校の統合等、村民を指導して難問題の解決にあたった。明治34年には稗貫郡会議員に当選し、この間にも郡参事会員も務めた。大正10年と同12年には県会議員に当選した。日清戦争時に役軍夫百人長に選定され、任務を遂行した功労により、大正9年に日本赤十字社特別社員となり、大正12年には郡及び村の自治に尽くした功労により銀杯を賜った。若い時から政治に興味を持っていた義一は、板垣退助の教えを受けていたと言われている。大正14年(1925年)2月20日に62歳で亡くなった。 |