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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。
200 件の情報が見つかりました。
氏名 | 地区 | 業績 |
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青木逸民あおき いつみん | 大迫 | ”藩校・作人館医学助教、漢学者” 文政元年(1818年)に気仙郡唐丹村(現釜石市)に生まれる。本家大迫青木家に跡取りがいなかったため、天保十一年(1840年)二十四歳の時に養子に入った。青木恭伯と名乗り、藩のお役医となる。盛岡藩では文武両道を目指す藩校「明義堂」を開講してたが、諸外国の開国要求が高まってきた慶応元年(1865年)それらに対応できる人材の育成を目的として、「作人館」と改称し、藩士子弟の就学を義務化した。そこで逸民は医学助教として藩士の子弟たちに医学を教えることとなった。この作人館は明治三年に廃校となるが、後に首相となった、原敬や日本物理学の礎を築いた田中館愛橘、東洋史学の先覚者である那珂通世など多数の人材を輩出した。「作人館」廃校後、逸民は大迫へともどり、積翠と号して漢詩作などに励んだ。 |
大信田源右衛門おおしだ げんえもん | 大迫 | ”江戸時代の大富豪・大信田源右衛門” 大信田家では、代々「源右衛門」を名乗っており、大迫町で最も多くの逸話や文化を残した家系。「横掛山 (向山) が崩れるとも大信田は崩れない」など、周囲からは江戸時代の大富豪であった大信田家に対する絶大な評価を得ていた。 初代源右衛門は、江戸初期の慶長・元和の頃に登場し、八木沢金山での採掘や、佐比内の金山や花巻台温泉の「雀の湯」など経営していたとも伝えられている。やがて金山経営から身をひき、上ノ山 (川原町の東南裏)に大きな屋敷を構え、ここで濁酒を醸造して栄えたといわれている。 二世源右衛門は、宗教心に篤く、天和元年(1681年)、下町の台地区に黄葉宗 (臨済宗の一派) の如意輪観音を勧請して普門庵を建立。翌年には、現在の到岸寺山門左側に玄祐庵という念仏堂を建立している。この時に、福島いわき地方のジャンガラ念仏を勧請し大変賑わったそうで、それが内川目方面へと伝わり、中乙念仏踊の始まりになったと言われている。慈善事業にも熱心で、凶作時には、難民救済事業として諏訪神社を創建。三嶽堂脇に地蔵堂を建立するなど、景勝地として整備を進めた。 三世以降の業績は明確ではないがが、三世源右衛門は鳥長根から川原町早池峰神社の川向かいまで大規模な開田をして穀倉地帯をつくったと伝えられる。 しかし、大富豪の名を欲しいままにしていた源右衛門も、宝暦年間の七世源右衛門を最後に、名乗る人はいなくなった。 |
大迫右近おおはさま うこん | 大迫 | ”戦国の風雲児・大迫右近” 大迫右近は、中世に大迫地方を支配した最後の大迫領主である。 中世に稗貫地方一帯を支配した稗貫氏の家臣である。大迫氏の居城大迫城は、桂林寺南側の山上にあり、桂林寺は大迫右近が招いて創建したといわれている。 永禄年中(1558~69年)、大迫氏は主家稗貫氏の命に反抗。鎮圧にきた稗貫勢を木戸ケ沢で不意打ちし、十二丁目右市之助を討ち取って勝利する。また、天正10年(1582年)当時大きな勢力を誇っていた葛西氏と南部氏との争いでは、南部方の九戸政実に従属した大迫又太郎なる人物が葛西勢の和賀一党と戦っており、この時の又太郎は大迫右近と思われる。 その右近も、天正18年主家稗貫氏の没落によって領地を追われるが、南部氏に反旗を翻した九戸政実に味方して九戸城(二戸市)へと駆けつける。ところが、豊臣秀吉が派遣した浅野長政・蒲生氏郷率いる大軍が押し寄せると聞くと、右近は密かに九戸城の陣を抜け出して大迫へ戻り、代々の由緒物を桂林寺に預け、長男と二男を連れて伊達政宗領の江刺郡人首へと落ち延びた。 その後、右近は人首において病死し、残された兄弟は伊達政宗の庇護のもと、領地回復を夢見て雌伏することになる。(注)よみがな 人首=ひとかべ |
小田島英里(彦々子英里)おだしま えいり | 大迫 | ”奥の巨匠・俳人” 英里の家は代々町医者の家系で、川原町に居を構えていた。医者としては小田島を名乗り、その業績ははっきりしていないが、俳諧の世界で有名となった。『大迫町史』には、「天明・寛政の頃、栄里なる俳人出でて四鱗に聞こえしより、当地方における俳諧大いに高まれり」と書かれている。英里の名は、天明5年(1785年)に亀ヶ森の天王社に奉納された「奉納句額」に記されており、これは英里が十七歳頃のことであった。 その後、盛岡の俳人・雪窓三白や平野平角などと交遊し、寛政3年(1791年)に京都の俳人・落柿舎重厚が主催して芭蕉百年忌の供養に刊行した「はすのくき」という句集へ参加した。また、寛政10年には江戸の文人・建部巣兆が、平野平角宅を訪れたときには、大迫の俳句仲間三人で巣兆を盛岡から海岸まで案内するなど、藩内だけにとどまらず、江戸・京都など中央の有名な俳人・文人とも積極的に交流し、活躍していた。 |
覚十郎・喜太郎かくじゅう・きたろう | 大迫 | ”「義民」と呼ばれた人たち 覚十郎・喜太郎” 天保七年 (1836年)11月19日晩、総勢四~五千人が盛岡城下の梁川橋までたどり着いた亀ケ森一揆が勃発。この一揆の首謀者として、同村の若者・喜太郎の名前が割れ補縛され、また、同村の肝入りであった覚十郎ら九人も次々と摘まった。覚十郎は一揆の首謀者、喜太郎は一揆の煽動や宮守村への暴動の罪で二人とも打首。後年、喜太郎の菩提寺である桂林寺の住職が、二人を供養するために漢詩を詠み、今も木戸ケ沢の国道396号沿いに建つ「天保義民碑」に刻まれている。最近では、江戸時代の飢饉の死者供養として始められたと伝わる「あんどん祭」の山車運行前に、石碑の前で音頭上げなどを行って供養をしている。 |
菊池金吾きくち きんご | 大迫 | ”富んで奢らず 実業家・菊池金吾” 金吾は、文化9年(1812年)豪農であり盛岡藩家老の藤枝宮内の給所肝煎でもあった亀ケ森川原田の菊池弥兵衛の三男として生まれ、金吾は十五歳で後に家老職となる花輪氏に仕えた。花輪氏が江戸勤番の際の従者となり、江戸で実業家の才能が磨かれ、江戸から戻ると、藩の財政係を担当し、勘定奉行に出世。その後、大出世をねたまれ失脚、蟄居を命ぜられる。その間においても殖財の道を講じて、幕末には藩に御用金を上納するほどの富を築き、明治初年には盛岡餌差小路(現在の肴町一帯)に広大な屋敷を構えるほどの大富豪となった。 県内機織業の先駆者として、士族の殖産のために尽力し、たびたび貧民救済に私財を投げ打った。82歳の大往生を遂げた際、時の内閣総理大臣伊藤博文は、深く悼み手書きの墓銘を寄せたと伝えられている。 |
衣更着掃部きさらぎ かもん | 大迫 | 衣吏着氏は、中世の一時期、大迫の穀倉地帯である亀ケ森の修理田・羽黒堂・蓮花田・大沢山周辺などの衣更着郷を領有し、また、志和六十六郷を支配していた名族・斯波氏の家臣。 衣更着氏の居館と伝わる「御所ケ館」は、亀ケ森四区の屋号・館の小森林家北側山上にあったが、亀ケ森の伝説では、応仁・文明のある年の9月29日、領主であった衣更着掃部と家臣たちが、城中で「九日餅」の祝宴をしていた時、清原武則(平安時代の出羽地方の豪族)の後裔と称する「亀ケ森図書(かめがもりずしょ)」なる者が、難なく城を攻め落としたと言われている。 亀ケ森氏によって滅ぼされた衣更着氏は滅亡し、掃部は病死。掃部の妻は、その後出家して京へ上り、本願寺九代実如上人(じつにょしょうにん)の直弟子となり、妙祐尼(みょうゆうじ)と名乗ったと言われている。 |
九日町十郎兵衛ここのかまちじゅうろうべい | 大迫 | ”中世九日町の証人・九日町十郎兵衛” 大迫で九日市(くにちまち)と呼ばれる市が立つ。市日の始まりは中世まで遡るといわれ、それを裏付けるのが大迫右近の弟と呼ばれる九日町十郎兵衛である。 中世領主の大迫右近は、南部氏に抵抗する道を選び、江刺へ逃れた後、病死するが、弟の十郎兵衛は兄と袂を分かち、南部氏に仕えた。 大迫右近の弟である十郎兵衛が大迫ではなく九日町を名乗っていた理由は、当時の武将の慣習から、居住、または支配していた地名を名乗っていたからと考えられる。九日町とはどこか考えてみると、九の日に市が立つ町場地名であることから中世の大迫地方では現在の大迫町大迫第四地割と十一割を分けるように走る「屋敷の中道」と呼ばれる中世街道沿いしか考えられない。街道筋と町場を取り囲むように一㌔四方に四つも城館があったことから、大迫氏がいかに九日町を重要視していたかがわかる。 右近の弟であるが故に、この最も重要な九日町周辺に屋敷を構え、その往来に目を光らせていたと考えられる。 |
菅原隆太郎すがわら りゅうたろう | 大迫 | ”ダルトン・プランの実践者” 明治12年に大迫町仲町の旧家・菅原五兵衛家の二男として生まれた。大正年間にダルトン・プランという新教育運動が提唱された頃、隆太郎は大迫町で、いち早くこの教育実践に取組んだ。ダルトン・プランは、アメリカのパーカスト女史が、マサチューセッツ州ダルトン市の高校で実践した教育方法で、「自学自修」と訳されたように、生徒自らが興味を待ったことを、自分で学びとる能力を養うものであった。この実施のため、自らの給与から多くの図書を購入し、学校図書館の設立に尽力する。 しかし、昭和5年頃から台頭してきた国家主義的教育の見地から、好ましからざる教育方法であると判断され、隆太郎は時流を感じ、昭和7年転勤により、ダルトンプランの実践は終わりを告げた。戦後、この実践の評価は高まり、岩手日報文化賞を受賞。そして昭和37年には大迫町名誉町民第1号を贈られ、昭和38年逝去。享年85歳。 |
外川又蔵そとかわ またぞう | 大迫 | ”大迫銭座の経営者” 江戸時代末期の盛岡藩御用達の木材商で、鉄銭鋳造の銭座の経営者。藩で初めての公式銭座は、慶応2年、大迫通外川目村大倉掛(おおぐらかけ)の地に開設され、慶応4年、又蔵が大迫銭座の経営者となった。ほかに釜石の大橋銭座、砂子渡銭座に出資し、三カ所の銭座を経営していた。大迫銭座では釜石の橋野鉱山から銭材供給を受け、年間五千貫の銭を鋳造し、地域に多大な恩恵を与えていた。 しかし、明治二年、大雨や干天などの天候不順が続き、人々が不安をもっていた時に、又蔵ら経営者が銭座の水車を稼働させるための雨乞いに、神聖な場所である折合の滝(七折の滝)に何か不浄のものを投げ入れたとか、高炉の熱がひでりの原因であるという噂がたち、住民一千人ほどが銭座に押し掛けた。この時、群衆の松明(たいまつ)の火が建物の一部に引火し、大火災となり、建物のほとんどが焼失した。大迫銭座は廃止され、職人たちは又蔵の経営する釜石の大橋銭座の方に移り、大迫から鉄産業の歴史は消えることとなった。 |
田中清六・彦右衛門たなか せいろく・ひこえもん | 大迫 | 中世から近世初期にかけて、大迫地方一帯は有数の産金地であり、これを積極的に開発したのが、田中清六・彦右衛門・藤四郎などの田中一族であった。 中世の大迫地方(亀ケ森を除く大迫・外川目・内川目)は稗貫氏の家臣であった大迫氏が領有していたが、天正18年(1590年)稗貫氏は小田原城攻め不参陣により所領を没収、大迫氏も領地を追われ、領主・大迫右近は江刺の人首へと逃れた。和賀・稗貴一帯は南部氏の領地となり、大迫地方は、田中一族のものとなる。田中氏は近江商人の出であり、南部氏に中央(京都)などの重要な情報をもたらした清六が功をあげ、嫡男である・彦右衛門に、大迫地方を与えた。 代官の彦右衛門は、慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦に乗じて全国各地で争乱が起きると、大迫右近の遺児、又三郎・又左衛門兄弟は旧領を奪還するべく、伊達政宗の応援を受けて大迫に攻め入ったが、南部勢によって、兄弟は江刺へと敗走し、再び大迫の地は彦右衛門の支配地となった。 彦右衛門は、南部氏の家臣となり、父の清六はその後も商人として全国を暗躍した。慶長六年には徳川氏に取り入り、大金脈が発見された佐渡金山の初代代官となる。田中一族が行った金山経営は、「タヌキ掘り」という乱掘方法で、まさに掘り散らかす状態であったと言われており。そのためか、清六は慶長八年には代官の職を解かれている。また、彦右衛門は、いつ頃か詳しくはわかっていないが、父と同じ「清六」を名乗るが、慶長・元和年間に金山経営を続けていた彦右衛門は、その後禄を南部氏に返上し、京都へ帰ったと言われている。 |
中嶋の宇兵衛なかしまの うへい | 大迫 | ”大規模開田の祖” 江戸中期に水源が不足する亀ヶ森、野田周辺等への葡萄沢用水の掘削を進め、完成に導いた人物。宇兵衛は、稗貫川から水を引き、広く潅漑を進める計画をたてた。計画は、隣の大迫村葡萄沢に川留めを築き、木戸ケ沢、岩ノ目、蟹沢、久保田、野田、切牛と通水する総延長1950間(約3.5㎞)。そのうち134間(約241m)が、岩ノ目の岩塊を掘削する岩堰であった。 難工事となり、内川目村、外川目村、大迫村からも人夫がかり出され、多くの負傷者や人夫間の争いなども起きたが、宝永2年(1705年)に葡萄沢用水は通水し、今までハ千刈であった水田が、一万五千刈へと倍近くに広がった。 この功績により、宇兵衛は南部公から堰守に任ぜられ、御免租地十石を拝領。士分の格となり大小の刀を差したが、武士でもない宇兵衛の大小姿を噸笑する村人たちも多かったため、その旨をお上に申し上げ、石高を二石として拝領し、子々孫々堰守として用水を守った。 |
南部利直なんぶ としなお | 大迫 | 初代盛岡藩主と位置づけられる南部信直公の嫡男。近世初頭の大迫の町づくりにも大きな影響を与えた。利直公は、関ケ原合戦で徳川方として参陣し、和賀・稗貫の地を含む所領を安堵され、藩の土台作りに尽力した。利直公は、新領地となった稗貫の旧大迫氏領には代官として田中彦右衛門を任命する。彦右衛門は甥の田中藤四郎を派遣し、天神館(現大迫高校)を代官所として、大迫地方の掌握にあたせた。 また、元和3年、大迫の街道を、直線的な宿駅として整備するように命じ、大信田源右衛門ら大迫の商人たちも事業に協力し、現在の上町、中(仲)町、下町の町場へと大きく造り変えたと伝えられている。その他、早池峰山を藩の東の鎮山として祀(まつ)り、その山麓に祈願寺として岳妙泉寺を整備した。慶長15年から17年にかけて行われた大造営では、新山堂・薬師堂・本宮・舞殿・鳥居・客殿など六社を建立する。加えて、南部葉がこの地方に広がった理由の一つとして、利直公が深く関わっていたという興味深い伝説もある。 |
錦木塚五郎にしきぎ つかごろう | 大迫 | ”江戸相撲の怪力力士” 身長五尺八寸(175cm)、肩幅三尺(90cm)の巨漢・錦木は江戸へ出ると、初代二所ケ関の弟子となり、文化2年(1805年)10月に初土俵。文化3年2月に三ツ鱗龍八と名乗り、西幕下尻より四枚目付け出しとなる。盛岡藩のお抱え力士として、文化6年冬場所には入幕を果たし錦木塚五郎を名乗り、関脇の鬼面山、前頭筆頭の荒馬を倒して成績は六勝二敗二預かり。勢いは止まらず、文化7年冬場所には、当時相撲の最高位であった大関相戸宗五郎を倒すという快挙を成し遂げた。文化10年春場所には西小結に昇進するが、この場所を最後に引退となった。 錦木は、文政4年(1821年)に亡くなりました。その墓は、到岸寺裏の共同墓地にある大きなアンコ型の自然石で出来ている。 |
野辺地尚義のへじ たかよし | 大迫 | ”日本の英語教育の先覚者” 尚義は、文政8年(1825年)、盛岡藩士・野辺地三弥の長男として生まれた。 尚義も、盛岡藩士となるが、時流に感じ、三十代で脱藩し江戸に向かう。そして、兵学者・大村益次郎の学問所で蘭学の勉強をし、のちに長崎に出て英語を学んだ。長崎遊学後は、長州の毛利家に出入りし、伊藤博文ら長州藩士に蘭学や英語を教えたといわれている。明治5年、京都府が創設した我が国初の女学校である 「新英学校女紅場」(のちの京都第一高等女学校)の校長として迎えられる。明治14年、「紅葉館」という民営の高級社交場が東京芝に建設された際、経験を買われ館主として招かれ、以降29年間務めた。明治42年東京芝の自宅に於いて85歳で逝去。墓も東京青山墓地にあるが、本人の希望で、産湯をもらい、実家同然と考えられている亀ケ森川原田の菊池家代々の墓所にも塞が建立されている。 |
平沢屏山(平沢国太郎)ひらさわ びょうざん | 大迫 | ”アイヌ風俗画を大成した絵師” 屏山は、本名を平沢国太郎といい、文政5年(1822年)、大迫村下町の平沢四郎兵衛家(屋号・番屋)の長男として生まれた。父の代に家運が傾き、彼が23、24歳の頃、函館に渡る。豪商・杉浦嘉七に絵の才能を認められ、嘉七の請負場所の十勝・日高地方に行き、アイヌたちと暮らし、アイヌの風俗を写生した。彼の措くアイヌ絵は、函館を訪れていた外国人の人気となり、一枚百円(今の価格で百万円)という法外な値段で絵の依頼をしていたものもあるという。 海外に持ち出されものも多く、大英博物館、国立スコットランド博物館など、世界的に有名な博物館に多く収蔵されている。日本に残る作品のうち、晩年の最高傑作といわれる「蝦夷風俗十ニケ月屏風」は、天理大学付属天理図書館、市立函館博物館(市指定文化財)に分散保管され、一部は昭和初期に行方不明となったが、緑あって現在は花巻市(旧大迫町)で保管している。 |
藤田惣吉ふじた そうきち | 大迫 | ”全国を股にかけたアヤツリ人形師” 惣吉は、明治21年亀ケ森伏木田の代々芸能に長けた人が多い藤田金蔵氏の二男として生まれる。学校卒業後、土方をして働く傍ら人形や舞台作りなどに励み、独学でアヤツリ人形の技を会得。17歳~20歳ぐらいの頃に亀ケ森村などの同好の士を集め、アヤツリ人形芝居「亀花一座」を結成する。亀ケ森村内や近隣町村への地方巡業などの後、全国的に活躍していた大興行師の目にとまり、亀花一座はその傘下に入った。それをきっかけに惣吉の全国巡業の生活が始まった(惣吉40歳頃)が、昭和17~18年ごろ、中風をわずらい倒れる。 亀ケ森に戻った惣吉は、療養生活を送るが、少し回復するや昔の仲間に声をかけて亀花一座として巡業を再開した。 しかし、病魔は再び襲い昭和26年、63歳でその生涯を閉じた。その後、惣吉の一番弟子の藤原権冶さんが跡を継いで活躍し、惣吉などの諸道具や人形の多くは人手に渡り、今は西和賀町の碧祥寺博物館に展示されている。 |
山屋三右衛門やまや さんえもん | 大迫 | ”主家再興に奔走した亀ケ森一族 山屋三右衛門” 亀森氏は先祖代々稗貫氏に仕えていたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置きにより、稗貫氏・和賀氏ともに領地を没収され、仕えていた稗貫広忠は花巻の矢沢に隠居し、文禄3年(1594年)に死去、妻の於三は矢沢の高松寺へ出家した。 稗貫氏の再興を図るべく、亀ケ森領主の亀ケ森玄蕃の弟と考えられる能登守嘉明は、勢いのあった南部氏に稗貫氏再興の夢を託し、稗貫氏直系である於三を高松寺から還俗させ、三戸城にいた南部信直公の側室として入れた。 だが、慶長4年(1599年)信直の突然の死去により、その想いもかなわず、於三はやむなく矢沢の高松寺へと戻り、翌年亡くなった。 嘉明は三戸に残り、南部氏に仕えることになり、九戸郡山屋村(現九戸村)に百石の知行地を賜ったことから、姓を亀ケ森から「山屋」に改め、山屋三右衛門と名乗った。 |
山屋他人やまや たにん | 大迫 | 皇太子妃雅子さまの母方の曾祖父として、県内でも大きな話題を集めた山屋他人。 その山屋家の始祖は中世に亀ケ森地方を領有していた亀ケ森氏の一族、山屋三右衛門(NO.29参照)という人物である。 山屋他人は、日露戦争において、当時世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を破るきっかけとなった「丁字戦法」の考案者で、日本海軍きっての戦術家といわれている。 また、東京芝紅葉館主人・野辺地尚義の実妹のヤスを母に持ち、山屋他人は父母ともに亀ケ森に縁があった。 (注)山屋他人自身は花巻出身ではない |
理右衛門りえもん | 大迫 | ○隠れキリシタン・理右衛門 徳川幕府は慶長17年(1612)キリスト教禁教令を出したが、ごの弾圧をのがれ密かに信仰を続ける人々を「隠れキリシタン」と呼んだ。 盛岡市公民館が所有する「南部家文書」によると、理右衛門は後藤寿庵(伊達氏の家臣でキリシタン領主)の弟子とされており、自らも弟子を持って積極的に布教活動を行っていたと記されている。隠れキリシタンの多くは金山師として山中に隠れることが多かったため大迫にも多くの信者が潜んでいたと思われる。 「南部家文書」には処刑されたキリシタン妻子90名が掲載されているが、そこには理右衛門の女房と12歳の息子、むこの与三郎の女房の名があり、理右衛門とむこの与三郎の名はないが当然処刑されたものと考えられる。金山の衰退とともに埋没したのか、現在はその墓やゆかりの品は残されていない。 |