郷土の先人を探す:花巻市の先人や、業績の概要について探します。

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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。

200 件の情報が見つかりました。

氏名 地区 業績
松川東四郎まつかわ とうしろう 花巻 ”花巻郷学の先駆者”
 1665年(寛文5年)~1726年(享保12年) 花巻城の買米奉行や銅山奉行を務めていたが、江戸に出て藩の仕事を命ぜられ、その傍ら、当時の大儒教家であった敬甫先生に学問を学んだ。帰郷後、東四郎は禄高の少ない武士、役人、町人の人々を1箇所に学ばせる「小学順講」(今でいう小学校)を花巻に起し、さらに花巻城内にも「花巻郷学」と称して武士の学問の場を設け、花巻の教育に大きな貢献をした。
松本竣介まつもと しゅんすけ 花巻 ”心清められるまなざしの画家”
 (明治45年~昭和23年)東京生まれ。二歳の時に川口町(現 花巻市南川原町)に移住し、幼少期を過ごす。父親と親交の深かった宮沢賢治と東和町土沢出身の萬鉄五郎に強く影響を受けた。昭和4年17歳の時に上京し、本格的に油彩画を学ぶ。魂淨めるまなざし、深く青い色に澄んだ詩魂、知的で誠実な画家として現在も高く評価されている。花巻市教育委員会に「丸の内風景」、岩手県立博物館に「議事堂のある風景」が残されている。
宮沢磯吉みやざわ いそきち 花巻  宮沢賢治の母・イチの末弟。東京慶応普通部(中学校)を経て仙台二高を卒業後。釜石でたばこ専売店を開き、後に薬店を営む。「宮沢賢治全集」の年譜には、賢治と7歳年上の磯吉が「互いに気楽な親しい感情を持っていた」と書かれている。賢治は、釜石の叔父の家を度々訪ね、レコードを聴いたりバイオリンを弾いたりしながら音楽談義を楽しんでいたとされ賢治のよき理解者であった様子がうかがえる。
宮沢賢治みやざわ けんじ 花巻 詩人・童話作家
明治29年(1896年)8月27日、現在の花巻市で生まれる。
盛岡高等農林卒。現在の花巻農業高校の教員となり、この頃から詩や童話を多く執筆。大正13年、「春と修羅」(詩集)と「注文の多い料理店」(童話集)を刊行。教職を辞した後は、羅須地人協会を設立し、青年らに芸術や科学を教え、農民の技術指導にも奔走。
昭和8年(1933年)9月21日死去。享年37歳。
八重樫祈美子やえがし きみこ 花巻 ”文豪、蘇峰の方腕”
 1904年(明治37年)花巻市川口町(現 東町)に生まれる。幼少の頃から向学心が強く、文学の道へと進むため上京。大学卒業後は、主婦之友社に雑誌記者として入社。後に大文芸評論家として名高い徳富蘇峰(とくとみ そほう)に認められ「民友社」に入社。蘇峰の片腕として活躍する。その傍ら「東香(とうこう)」と言う名で自身の作品も多く残している。
 代表作「花と文学=伝説=花ことば」 花巻市十二丁目円通寺に顕彰碑「東香女史之碑」が建てられている。
八重樫豊澤やえがし ほうたく 花巻 ”郷土の誇る画人”
 1763年(宝暦13年)豊沢町の花巻城下に初めての寺子屋 八重樫塾の家に生まれる。花巻の画壇 小野寺 周徳の元で絵を学び、更には江戸に上り周徳の師である谷 文晁に絵を学んだ。数々の作品を残しているが、三国志の名軍師を書いた「諸葛孔明図」、花巻三画人の一人 伊藤鶏路を描いた「鶏路図」は花巻市指定文化財として指定されている。画人としてだけでなく、書や詩文を書く文化人としても活躍をした。
山室機恵子やまむろ きえこ 花巻 ”社会福祉の先駆者”
 1874年(明治7年)~1916年(大正5年) 川口町で生まれる。幼い頃から信仰心が強く、自らの生涯を社会奉仕活動に捧げた。大正初期に大流行した結核の療養所新設に奔走し、日本の社会福祉の先駆者と言われている。
安彦武彦あびこ たけひこ 石鳥谷 ”八重畑の三筆”
 文久2年(1862年)2月16日、西八重畑で生まれた。明治29年(1896年)軍隊除隊後、中国にわたり古典や漢学書道を学んだ。明治33年に帰国後、水沢町に居住し、同町の漢学者太宰静渓とともに漢学塾を開設した。多くの名士と交友があった武彦は、指導を続けながら学問に励んだ。大正12年(1923年)に上京し昭和8年(1933年)まで滝野川区で子弟の指導にあたった。書は大変優雅で気品のあるものだったという。
 大正9年8月15日、72歳で亡くなった。大竹三郎・藤原広寿郎と共に「郷土の三筆」と称された。
阿部伊佐吉あべ いさきち 石鳥谷 ”八幡の教育に情熱を傾けた”
 明治2年(1869年)1月7日に花巻市宮野目葛で生まれた。明治25年から、花巻、盛岡市仁王、宮古、八重畑、八幡等小学校で34年5ヵ月教職に勤務した。うち八幡小学校では27年間勤務し校長としても教育にあたった。児童の基礎教育に力を注ぎ、厳格な中にも優しさに満ちた教育に務めた。八幡小学校を退職後は、宮野目村の議会議員や学務委員を務め、昭和6年(1931年)6月10日に63歳で亡くなった。昭和28年(1953年)門下生により、八幡小学校の校門傍に玉山倉吉と共に彰徳碑が建てられている。
荒川省三あらかわ しょうぞう 石鳥谷 ”ハワイでキリスト教の伝導にあたった”
 明治20年(1887年)10月21日に盛岡市青物町(現盛岡市仙北町)で生まれる。早稲田大学在学中に内村鑑三の講演を聞き、その道を目指して日本バプテスト神学校に入学した。卒業後、宮城県や釜石でキリスト教の伝道・普及にあたり、その後ハワイに渡り教会の主管者として布教・伝道の活動をした。昭和5年(1930年)に帰国し、東京新生館を創設、キリスト教の伝道にあたる傍ら「現代新聖書註解全書」を編集した。昭和18年より石鳥谷町に居住するようになった。昭和22年には新堀村長に選出、就任中は新興製作所新堀工場の誘致に力を尽くした。自ら民主村長を標榜し、弁舌は他の人の追従を許さなかったといわれている。
 昭和29年(1954年)8月5日、68歳で亡くなった。
板垣エナいたがき えな 石鳥谷 ”児童の教育や女性の指導に力を注いだ”
 明治43年(1910年)1月8日に北海道室蘭市で生まれた。父親が矢巾出身、叔父が盛岡に居住していたことから、岩手県の教師を希望し、昭和6年に大瀬川小学校の教師となり、25年余勤務した。正しく明朗な人づくりを目標に愛情と厳しさをもって児童の教訓にあった。地域の女性の地位向上や福祉の増進、青少年の健全育成等にも力を注いだ。昭和34年に町連合婦人会長、町社会教育委員や町社会福祉協議会理事等を務めた。昭和54年(1979年)1月23日、69歳で亡くなった。
稲村徳助いなむら とくすけ 石鳥谷 ”近代南部杜氏の祖”
 杜氏とは酒を造る蔵人たちの責任者に当たる人をいう。徳助は当地方における杜氏の先駆けとして知られ近代南部杜氏の祖と言われている。
 文政2年(1819年)12月5日に大瀬川で生まれる。石鳥谷酒屋で酒造の研究に励み、酒造りの先進地である関西から伝わった収蔵法に工夫を凝らし「南部流」の酒造りを完成させた。弟子の養成にも熱心で徳助のもとを訪ねる人が後を絶たなかったと言われている。明治12年(1879年)5月18日、60歳で亡くなった。好地の熊野神社境内に酒造の神として崇敬される松尾神社の碑が建てられているが、この碑は、稲村徳助等、先人杜氏の顕彰を兼ねて明治26年(1893年)に建立された。
岩井垂太いわい つねた 石鳥谷 ”学制発布前の寺子屋師匠”
 盛岡の士族。新堀橋本の藤原欣也宅の屋敷で桐野宗平とともに子弟の教育にあたった。学制発布前は、寺子屋教育と称されたもので、読み方、習字、そろばんなどを教えていた。慶応四年(1868年)正月8日に亡くなった。岩井垂太・桐野宗平の両人の筆塚(教えを受けた門人が師に対して謝恩の意味で建てたもの)が、大正5年(1916年)に新堀橋本に建立された。
岩亀精造いわがめ せいぞう 石鳥谷 ”岩手日報・岩手放送社長として活躍”
 岩手日報・岩手放送株式会社の社長を務め岩手の情報文化の発展につくした。
 明治36年(1903年)10月26日、大迫町で生まれ、大正15年(1926年)11月に岩手日報社に入社し昭和19年2月に代表取締役となった。昭和27年5月には社長に就任した。戦後の混乱期に経営を担い全国的な新聞社の激しい民主化運動を乗り切ったほか、夕刊の復刊などを行った。昭和33年2月に退任した。
 岩手放送の設立にも尽力した。岩手放送の創立準備委員長として奔走し、昭和28年に設立と同時に社長に就任、岩手日報社長と兼任した。岩手放送の社長として経営基盤が固まった昭和34年3月まで務めた。その後は石鳥谷町に居住し、昭和41年(1966年)8月22日、63歳で亡くなった。
岩舘正一いわだて しょういち 石鳥谷 ”学校教育・町政に貢献した”
 明治24年(1891年)2月19日に宮守村(現遠野市)で生まれた。県立盛岡中学校(現盛岡一高)を卒業後、新堀で教職をスタートさせ、その後亀ヶ森小学校、宮野目小学校、新堀小学校等の校長を歴任した。他にも農業補修校長、青年団長、図書館長等を兼務した。正一は、教育の振興だけでなく、スポーツの振興にも力を注いでおり花巻庭球協会、稗貫郡卓球協会を設立し、自らもコーチとして選手として出場した。
 昭和21年に34年に及ぶ教職を退職後は、旧石鳥谷町議会議員を務め、町議会議員を退任後は町教育委員、町教育委員長を務めた。昭和47年(1972年)11月16日に83歳で亡くなった。
岩見大椽いわみ だいじょう 石鳥谷 ”盛岡藩お抱え仏師”
 南寺林に生まれる。各地で彫刻の修行を重ね、京都で大成したのちに帰郷する。その技は盛岡藩主に高く評価され、お抱え仏師として岩見大椽という名を与えられた。
 仏像の制作には厳しい覚悟を持って臨み、必ず水垢離(冷水を浴びて身体の穢れを祓うこと)を行ってから制作にあたるほどであった。
 慶応2年(1866年)3月6日に70余歳で亡くなった。生家には金属性の「焼印」や大椽の作品・史料などが残されいたが、火事により焼失してしまった。南寺林の貴船神社の神楽面なども制作したが、これも火事により焼失している。残されているのは、晩年の嘉永2年(1849年)10月1日に制作された、八幡の八幡宮にある神祇伯資敬王の親筆による扁額のみとなっている。花巻に居住し、生家が南寺林だったことから、まだ花巻に作品が残されているのではとも言われている。
内堀伊豆頼式うちぼり いずよりしき 石鳥谷 ”南部藩重臣として新堀を知行した”
 浅井長政の家臣であったが、主家が没落しその後は前田利家につかえていた。利家の命により三戸と金沢間を往来していたが、のちに南部氏につかえて重臣となった。南部家三代にわたって仕え、歴代藩主たちから篤い信頼を得ていた。
 頼式は、城中に勤仕以外は新堀城に居住した。新仙寺を三竹堂から現在地に移し、寺の開基となって寺禄として十石を給した。また新堀諏訪神社の整備にも努め、家臣の高桑吉左エ門正房を新堀に居住させて祭儀を執り行わせた。後年、名を伊豆と改め、晩年には剃髪をして円齋と称した。寛永13年(1636)に91歳で亡くなった。
及川八郎おいかわ はちろう 石鳥谷 ”北海道新聞編集局長などを歴任した”
 明治38年(1905年)5月に東和町土沢に生まれたが、3歳の時に父が急死したため母の生家の関口で育った。八重畑村役場に就職した後、岩手県庁に勤めながら夜間学校に通った。大正15年(1926年)5月に北海道室蘭毎日新聞社に入社し、新聞配達から新聞記者となったのち、樺太の北海タイムス社の大泊支局長となった。昭和17年(1942年)には北海道新聞浦河支局長となり、編集局報道本部文化部長、販売部長、各支社長、営業局長等を歴任した。のちに、常務取締役業務局長、編集局長と昇進していった。
 八重畑村で保育所を建設する際には教育振興のためにと多額の寄附をしている。昭和48年(1973年)3月19日に68歳で亡くなった。
大石湛燃おおいし たんねん 石鳥谷 ”明治初期の新堀地区の教育に尽力した”
 文政年間(1818~1830年)に新堀の長善寺に生まれた。新堀に塾を開いていた岩井垂太から和漢の学問を修め、長善寺十五世住職となってから寺子屋の師匠として教育にあたった。明治8年4月に新堀学校(新堀小学校の前身)が長善寺に創設されると同時に子弟の教育にあたり、約41年にわたり村内の教育にあたった。明治21年(1888年)12月5日に66歳で亡くなった。没後三回忌には長善寺境内の桜の木の下に頒徳碑が建立された。
大竹澄司おおたけ きよじ 石鳥谷 ”地方自治の黎明期に郷土の建設に尽くした”
 弘化4年(1847年)11月15日、八重畑で生まれる。明治6年(1873年)に27歳の若さで、滝田村、戸塚村、猪鼻村、関口村、八重畑村五ヵ村の戸長となった。のちに、西南戦役で官軍方に従事し帰郷すると新堀・戸塚の戸長となった。その後、関口、八重畑両村の村会議員を経て、県議員や稗貫郡会議員など多くの役職を担った。盛岡での明治橋架設工事の際には多額の寄附を行ったり、村内の学校設立の寄附など住み良い郷土の建設にも尽力した。私心を顧みないこうした行動からは、ひたすら公益を追求して住みよい郷土の建設に尽くした澄司の精廉実直な人柄をうかがい知ることができる。
 また、村の産業への振興にも努め産業の多様化を図った。その後も県会議員、稗貫郡会議員等を多年に渡って務めた。大正元年(1912年)11月5日、65歳で亡くなった。