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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。
200 件の情報が見つかりました。
氏名 | 地区 | 業績 |
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阿部晁あべ ちょう | 花巻 | 阿部晁は、明治4年(1871年)、旧湯口村に生まれた。仙台の第二高等学校の医科(現・東北大学医学部)に進んだが、家庭の事情で中退し、その後帰郷した。 帰郷後は、花城小学校(現・花巻小学校)で代用教員として、明治26年から大正6年まで、通算23年間勤めた。高等科の男子を受け持った阿部は、「身体強健であれ」という校訓に従い、スパルタ式の教育を行った。また、理科の授業では、手作りの教材を使ったというこだわりも伝えられている。 阿部は熱心な仏教信者でもあり、宮沢賢治の父・政次郎らとともに、花巻の仏教普及を行う「仏教四恩会」の世話人として、宗教家の暁(あけ)烏(がらす)敏(はや)らによる講習会の開催に尽力した。 大正13年(1924年)から約10年間は湯口村長を務め、高倉山スキー場(現・鉛温泉スキー場)の設置など、地元の行政にも手腕を発揮した。 なお、長男の阿部千一(1893年~1972年)は、1955年から1963年まで、岩手県知事を務めた人物である。 |
阿部勇治あべ ゆうじ | 花巻 | 明治36年、明治41年、大正4年に衆議院議員として当選している。昭和3年に始まり、同25年に豊沢土地改良区と合併する宮野目耕地整理事業の立ち上げに小野嵜耕夫とともに尽力した。 |
伊藤鶏路いとう けいろ | 花巻 | ”花巻地方俳壇の草分け” 1748年(寛延元年)~1815年(文化12年)名は脩、俳号として鶏路が使われた。医学を学ぶ為に江戸に出た後、花巻城の医師ととして活躍する側ら俳人としても活躍をした。「奥の細道」で知られる松尾芭蕉の俳句を花巻地方に広めた。「大切な花と成りけり山佐久良」という句の短冊は、花巻指定文化財として指定されている。 |
上田弥次郎(有年)うえだ やじろう | 花巻 | 松川滋安の弟子として学び、20歳で藩校である花巻城の文武の学館「揆奮場」で国学を教えた。その後、小学校制の施行に伴い葛小学校、羽々小学校、宮野目尋常小学校と宮野目地区で26年間教育に携わった。このほか、和歌もたしなみ「上田有年翁歌集」などを残している。 |
内村皓一うちむら こういち | 花巻 | 1914年(大正3年)~1993年(平成5年) 盛岡市生まれ。子どもの頃から写真に興味を持ち、唐武主宰の「光友クラブ」で指導を受ける。昭和15年から、奉天市文官屯18部隊で終戦まで写真に従事した。昭和21年8月、帰国。花巻で印刷業を営むかたわら、昭和24年、海外展への出品を始め、翌25年に英国ロイヤルアカデミーサロンで《瞑想》がグランプリを受賞するなど、昭和44年に引退するまで2,000点を超える入選、受賞歴を持つ。また、写真クラブ「皓友会」を結成し後進の指導を務めるかたわら、海外とのネットワークを生かし多くの交流展も開催した。昭和48年、岩手日報文化賞受賞。昭和58年、花巻市勢功労者。 |
太田善四郎おおた ぜんしろう | 花巻 | ”花巻人形の先駆者” 花巻人形の創始者。善四郎は人形の技法を京都の伏見人形・仙台の堤人形から学んだと伝えられている。ひな人形の製法に大変優れており当時「おひな善四郎」と呼ばれていた。花巻人形の特徴として外側に色々な事柄が刻み込まれている。花巻市太田の歴史資料館には、沢山の花巻人形が展示されており、古型の一部は花巻市の有形文化財に指定されている。 |
太田代恒徳おおたしろ つねのり | 花巻 | ”県下一の漢学者” 1835年(天保6年)~1891年(明治34年) 成田村(現 花巻市成田)に生まれる。幼い頃から優れた学力を持っていた。県下随一の漢学者。花巻市円通寺に葬られている。代表的な著書として「南部四世事蹟考」「論語説」「中庸説」等が残されている。 |
岡山不衣おかやま ふい | 花巻 | ”鬼才の俳人” 1885年(明治18年)~1943年(昭和40年) 花巻市四日町生まれ。岩手県で詩の宮沢賢治、短歌の石川啄木、俳句の岡山儀七(不衣)と言われた。盛岡中学時代に一年先輩である石川啄木と出会い親交を深めていく。岩手毎日新聞社に20年余り勤めた後、編集長となる。世に名前は残されていないが、身も俳人として才能を発揮した。花巻市愛宕町雄山寺に句碑「鶏頭や夕日に染まり地獄変」が建てられている。 |
奥寺定恒おくでら さだつね | 花巻 | ”稗貫・和賀の開田の雄” 1628年(寛永5年)~1686年(貞享3年) 花巻生まれ。藩の財政の基となる米の増産のため新田の開発に努めた。花巻の水田地帯の基を築いた。村崎野、笹間など十ヵ村に奥寺用水壇を作る。1665年(實文4年)花巻より鬼柳まで松並木を作る。 |
小野嵜耕夫おのさき たかお | 花巻 | 明治30年に郡会議員、明治36年に県会議員、明治41年に衆議院議員に当選している。宮野目地区の教育水準を高めるために小学校の統廃合を進めるほか、営農上の問題を解決するための耕地整理事業の立ち上げ、岩手軽便鉄道の布設等物心両面にわたった活動を行った。 |
小野嵜篤造おのでら あつぞう | 花巻 | 小野嵜耕夫の長男。岩手銀行の前身である「盛岡銀行」の頭取を務め、盛岡電燈・岩手軽便鉄道・花巻温泉等の役員を兼任するほか、宮野目村議会議員として耕地整理組合を設立し組合長を務めた。しかし、昭和4年に始まった世界恐慌で銀行が倒産し、個人資産も失ったことからこれらの職を辞した。 |
小野寺周徳おのでら しゅうとく | 花巻 | ”花巻城の襖絵師” 1759年(宝暦9年)~1814年(文化11年) 豊沢町生まれ。「花巻三画人」の一人。江戸で医学を学び、画家としての感性を磨いた後、花巻城の医師として活躍した。絵画師としての功績が多く残されている。ある時周徳が描いたニワトリの絵を、猫が頭から尾まで爪で掻き毟ってしまったとも言い伝えられている。襖絵「花鳥図の襖絵八枚」(愛宕町・妙円寺蔵) 「双雲図六曲一双屏風(元箱崎家蔵・元県立博物館)」は花巻市指定文化財に指定されている。 |
鎌田謙三かまだ けんぞう | 花巻 | 北日本銀行の前身である「岩手興産相互銀行」の初代頭首を務めた。岩手経済界の要職を歴任している。黄綬褒章受章。 |
菊池俊吉きくち しゅんきち | 花巻 | 大正5年(1916年)に花巻市御田屋町に生まれた菊池俊吉は、昭和期の日本を代表する写真家の一人である。オリエンタル写真学校を卒業後、昭和13年(1937年)に東京光芸社へ入社。報道写真家として活動を開始した。 戦時中は陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌「FRONT」の写真部員となり、本土や外地部隊の撮影、産業記録などに幅広く活躍した。中でも、終戦直後の昭和20年(1945年)10月に文部省の原爆被害調査団の一員として、広島を撮影した記録写真は、大変貴重な資料であるとともに、悲惨な原爆の傷跡を克明に伝えている。 また、戦中戦後を通して銀座の街のありようを記録した写真も多く、昭和という時代に息づく街の様子を明確な視線で捉えている。 戦後は、農村や漁村の暮らしを題材としたシリーズや、科学分野の撮影など活動の幅を広げていった。 昭和という激動の時代を通して、日本における記録写真の分野を確立したカメラマンの一人である俊吉は、平成2年(1990年)、74歳でその生涯を閉じた。 |
北松斎きた しょうさい | 花巻 | ”花巻開町の人” 1523年(大永3年)~1613年(慶長18年)現青森県三戸郡南部町剣吉に生まれる。幼少名 吉丸、元服後 信愛。78歳の時に自ら「松斎」と号した。二代目花巻郡代。花巻城代 次男 秀愛の死後を引継ぎ76歳で花巻城代となる。農業・商業・軍事面に力を注ぎ、花巻を城下町とする礎を築いた。領民から厚い信頼を受けていた松斎の命日に因み、その御恩を忍んで「花巻祭」が始まったと伝えられている。 |
金田一國士きんだいち くにお | 花巻 | ”花巻温泉の開設者” 1883年(明治16年)~1940年(昭和15年) 青森県の味噌・醤油醸造を営む家に生まる。22歳の時に盛岡の大豆問屋 金田一家の養子となる。岩手軽便鉄道の建設、花巻電気会社と合併した盛岡電気工業の社長に就任した際には、台温泉から温泉を引き、花巻温泉を開業した。高村光太郎が國士の生涯を讃えた詩が書かれた顕彰碑が花巻温泉松雲閣に建立されている。 |
斉藤宗次郎さいとう そうじろう | 花巻 | ”内村鑑三の弟子、雨ニモマケズのモデルとも” 明治10年(1877)北笹間生まれ。岩手県尋常師範学校在学中に、内村鑑三の「地人論」を読み傾倒していく。卒業後は、小学校訓導となるが学校で生徒にキリスト教教育を行ったとして非難され依願退職をしている。明治38年から花巻町内で書店などを開きながら、その傍らでキリスト教の布教活動などの様々な奉仕活動を行う。大正10年宮沢賢治が稗貫農学校に教師として赴任したころから19歳年下の賢治と交友をもち、賢治は作品「春と修羅」出版前に宗次郎に批評を乞うなどしている。大正15年には東京に移住し内村鑑三を手伝いながら講演会等へ同道し伝導活動を続けた。昭和43年92歳で亡くなった。 |
齋藤盛人さいとう もりと | 花巻 | 茅無尽講を宮野目地区で始めて組織した。また、地域の相互扶助のために金無尽講を組織したほか、集会場を建設し、地域の若者の教育や活動の場を提供した。 |
佐藤皐蔵さとう こうぞう | 花巻 | 佐藤皐蔵は明治4年(1871年)、町勢功労者の佐藤庄五郎の長男として旧花巻川口町に生まれた。海軍兵学校で学び、卒業後は海軍の軍人として日清戦争、日露戦争にも従軍した。 第一次世界大戦中の大正6年(1917年)、当時同盟を結んでいたイギリスが、ドイツ軍の潜水艦からの船団護衛を日本に要請。地中海横断航路の司令官として、当時海軍少将だった皐蔵が派遣された。 地中海特有の荒波などで任務は困難を極め、日本海軍史上初めてとなる潜水艦との戦闘も経験。戦死者もでたが、1年半の任務の間に、連合国軍の788隻の艦船と約75万人の乗客を護衛した。 皐蔵のこの功績は高く評価され、連合国各国の元首や首脳から数々の勲章が授与されている。 |
佐藤昌介さとう しょうすけ | 花巻 | ”北海道大学の父” 盛岡藩士佐藤昌蔵の長男として花巻に生まれ、東京英語学校在学時代にクラーク博士が北海道開発の重要性を説いたことから、札幌農学校へと進学。その後、大学助手や海外留学を経て、札幌農学校教授、後に校長となり、学校経営の組織づくりにまい進。同校が北海道帝国大学として発足した際、総長となり、総合大学としての基盤を確立した。札幌農学校教授着任以来、実に50年もの間、北海道の開拓と指導者の育成のために生涯をささげた。 |